「おられる」「参られる」「申される」「致される」は誤り?

タイトルに挙げたような表現は、敬語として誤りであるとされます。

これらの表現は、次のような構造になっています。
おられる - 謙譲語Ⅱ「おる」+尊敬の助動詞「れる」
参られる - 謙譲語Ⅱ「参る」+尊敬の助動詞「れる」
申される - 謙譲語Ⅱ「申す」+尊敬の助動詞「れる」
致される - 謙譲語Ⅱ「致す」+尊敬の助動詞「れる」
ひとつの動詞に対して、謙譲語と尊敬語が同時に使用されているので誤りである、とされるわけです。

ここでちょっと興味深いのは、これらの例は、全て「謙譲語Ⅰ」でなく、「謙譲語Ⅱ」である、という点です。
これらの例の中でも、特に「おられる」という表現は、良く聞くのではないかと思います。
これって、誤りとしてしまって良いのでしょうか?
そもそも、これらを「謙譲語Ⅱ」と概念付けるのが正しいのか、私は、ちょっと疑問なのです。

時代劇などを想像してみてください。
身分の高い人が、尊大な感じで、次のように人に命令する場面がありますよね。
そこにおれ
こちらに参れ
正直に申せ
切腹致せ
これらについて、次のように説明されることがあります。
謙譲語を相手に使うことにより、相手をへりくだらせることになるため、自分を立てた表現となる。

どうですか?
一見、「なるほど」と納得できそうな気がしますが、ちょっと待ってください。
動作主体を逆転させると、おかしなことになります。

同じように、時代劇のような世界を想像してもらって、やはり身分の高い人が、今度は自分の動作について、次のように話していることを想像してみて下さい。
分かっておる
すぐに参る
そのように申したはずだ
手打ちに致す
どうでしょうか? これもありそうですよね。
でも、これらの表現の場合、これらの動詞を謙譲語だと考えると、動作の主体は全部自分なので、自分をへりくだらせていることになってしまいます。
さっきは相手を下げてたのに、今度は自分を下げて、すっかり謙虚になっちゃいました。

これらの中でも特に、「おる」という表現は、時代劇という程に時代をさかのぼらなくても、少し年配の社長、くらいのシチュエーションで、十分に現実味を帯びるのではないでしょうか。
自分の動作の場合
わしなら、ここにおるぞ。
相手の動作の場合
わしが戻るまで、そこにおれ。
この両方が成り立つのは、どう考えれば良いのでしょう。

ネットで色々調べてみると、次のようなページが見つかりました。
http://mickey.homelinux.net/~u-ryo/notes/sundai/kobun/lecture7.frame.html
古文の読解問題の解説をされているページです。
ここに、「荘重態敬語(格式語・尊大語)」という敬語のことが書かれています。
この「荘重態」というのは、その動作の主体・客体のどちらかをへりくだらせたり敬ったりするわけではなく、言語そのものを厳粛荘重にするような働きを持つ敬語だそうです。

この概念で考えてみると、上に示した例は、しっくり来ますよね。
荘重態で自分の発言そのものを厳粛荘重なものにしているわけです。
これなら、「おる」「参る」「申す」「致す」などの動作の主体が誰であるかに関係なく使えることも納得できます。
「動作の主体・客体に無関係」という意味では、丁寧語に近いといえるかもしれません。
丁寧語の「です」「ます」「ございます」は、動作の主体や客体が誰であるかは一切関係なく、今話している相手に対して丁寧に述べる、という性質の敬語ですからね。
きっと、これらの動詞は、この「荘重態」のような形式で、動作の主体・客体に無関係な敬語として成立した言葉なのではないかと思われるのです。

でも、現代語文法では、「おる」「参る」「申す」「致す」は、全て「謙譲語Ⅱ(丁重語)」と定義されます。
これは、先の「荘重態」とは性質の異なるものなので、注意が必要です。

「謙譲語Ⅱ(丁重語)」というのは、まず、
話している相手を立てる敬語
です。
「丁重語」という言葉のとおり、相手に対して丁重に述べるための敬語です。
その意味では、丁寧語とほぼ同じです。
ただし、丁寧語と違うのが、
動作の主体をへりくだらせる敬語
だということです。

だから、次のように、相手の動作に謙譲語Ⅱを使うのは誤りであるとされます。
(カッコ内が正しいとされる表現)
こちらにおられます (こちらにいらっしゃいます)
社長が参られました (社長がいらっしゃいました)
と、申されますと? (と、おっしゃいますと?)
いかが致されますか? (いかがなさいますか?)

最初の方でも書きましたが、これらの中でも「おられる」という表現は、かなり出現頻度が高い気がします。
「おられる」という表現は、そもそも、これらの敬語のルールができた後で生まれた言葉でしょうか?
私には、もっと古くから使われていた言葉であるように思われます。
でも、この表現は、「敬語のルール」に反しているため、「誤り」であるとされてしまうのです。
これは正当な非難なのでしょうか?
そもそも、ルールに「荘重態」のような枠組みが用意されていないことの方が問題なのではないでしょうか?

スポーツなどは、確かに、ルールありきで行われる必要があります。
ルールが守られなければ、スポーツは成り立たず、めちゃくちゃになっちゃいますからね。
でも、言葉というのは、まず人に使われるという事実ありきの話です。
使われている言葉を眺めて、その底に流れる体系的な部分を後から「文法」という形でまとめるわけです。
文法という「ルール」は、あくまで「後付け」で作られるものです。

それなのに、言葉の実体を把握し切らないままルールを作り、そのルールに当てはめにくい表現が後から見つかった時に、ルールを変えるのではなく、その表現自体を間違いとすることで片付けてしまう。
そういう発想は、非常に頂けない考え方であると、私には感じられるのですが、いかがでしょうか?

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